漆原の思い

第一回児童ペン賞大賞・「ぼくと戦争の物語」を書いて

公明新聞 H28・2・5付

  日本児童ペンクラブは、「平和社会の確立は、児童文化の振興によるとの原則に立って活動する」との理念のもと、川端康成、大宅壮一らが発案、両氏自らが顧問になって1971年に発足した会である。
 同会は、この40数年、子ども対象の活動を行ってきたが、今年度より「児童ペン賞」が創設されることになった。「次世代を背負う子どもたちに残したい優れた作品が対象」ということで、拙書『ぼくと戦争の物語』(フレーベル館刊)が、第1回の児童ペン大賞受賞作に選ばれた、と嬉しい知らせが届いた。
 私は絶えず「今、何を書かなければならないか。そのためにどう書くか」ということを模索している。そこで、一昨年、「戦後70年を前に、戦災体験を生き証人として書き残しておこう」と決めた。「小学校中学年生から読めるようにと、主人公を4年生とし、太平洋戦争時代の生活を、平易な文章でルビーをつけ、物語風にまとめたい」と出版社に提案。手元にある「東京大空襲などの資料」を紐解き,12万人余の戦争孤児の1人として、戦中生活の一端を掘り起こしたのである。
 作品の舞台は東京と福島。時代背景は太平洋戦争末期。日本は開戦直後から、物資や食糧不足に陥り、本土は連日のように空爆を受け、日毎に奈落の底へと落ちていく。学童は、ひたすら軍事教練を強いられていく。鉄製のベーゴマなどの遊び道具も没収される。やがて学童は疎開を余儀なくされる。
 疎開先の学校では、班単位による農作業が待っていた。食糧不足を補うイナゴ捕り、農家を手伝う縄ない作業、馬糞拾い、材木運び……都会育ちの心平は、いつも規定量に達せず、仲間にいじめられる。東京へ戻りたいと父に手紙を書くが、家族は東京大空襲で行方不明。やがて敗戦。両親と家屋を失った心平は呆然と焼け跡にたたずんだ、という内容。
 本書は、私の実体験をもとに、それを主人公の心平に重ね合わせたものである。
 疎開中、班長にいじめられ、殴られても逆らえなかったのは、「班長の命令は、級長の命令、級長の命令は天皇の命令」と教えられ、それに反すると「非国民」として敵視されるからである。軍国主義の末端は、心根の優しい教師や、学級長までも冷酷な人間に変貌させていくのである。そうした事実を、子どもの目線でとらえ、次世代に語り継いでいってもらいたい、という願いを込めた。
 戦争というのは、ある日突発的に起こるものではなく、周囲の空気が、怪しげに徐々に変化していくものであることを、私は子ども心に肌で感じることができたのだった。
 昭和20年8月15日。日本の敗戦によって太平洋戦争は終結したが、何万という戦災孤児にとっては、その日こそは「己の生き方との苦難の闘いの日々の出発点」でもあったのだ。そのことを忘れてはならない。
 戦争の悲惨さ、残酷さ、むなしさ、無意味さを次世代に伝えたい、理解してもらいたい。さらに、命の尊厳さと、平和で明るい家庭生活が営める幸福について考えてもらいたい。そんな思いを込めて書きあげた一冊である。


 
 






 
 

「スワン・学習障害のある少女の挑戦」誕生裏話

雑誌「児童文芸」H28年2~3月号

 「何をどう書くか」よりも、「いま、何を書かなければならないか。そのためにどう書くか」と、考えている私は、絶えず「作品の題材」を血眼になって探している。ノンフィクション題材はごろごろ転がっていても、「書いておかなければならない価値ある題材」は100分の1程度。ところが、ある日、突然に舞い込んでくることもあるのだ。
 今回は、拙書『スワン・学習障害のある少女の挑戦』(アリス館・2014年刊)の誕生までに焦点を絞ろう。
 2012年秋、京都に住む渡邊光明さんから「学習障害のある女性が個展を開いている。激励していただければ……」と、一通の便りと京都新聞記事が送られてきたのが出発点。私と渡邊さんとは、その年の夏、上野の東京美術館で絵画の鑑賞中に偶然知り合い、名刺を交換しただけにすぎない。私は早速その女性、岡本美香さんに「目標に向かって進んでほしい」と激励の便りを送った。
 その後何度か、手紙のやり取りをおこなった。「学習障害にもめげず、力強く歩む半生」を知るうちに「そのことを作品化し。多くの人に読んでもらうことによって、学習障害者への理解が深まるのではないか」と考えるようになった。
私が、岐阜で講演の折、美香さんが京都から駆けつけてくれ、お会いする機会を得た。彼女の半生を詳しく耳にした。
 2012年12月5日、十年ぶりに文部科学省が「発達障害児童・生徒の調査結果」を発表した。それによると、通常学級に発達障害の可能性のある児童・生徒が6・5パーセントの割合で在籍していることが判明した。一学級当たり二〜
三人いることになるのだ。LD(学習障害),ADHD(注意欠陥、多動性障害)のほかにも自閉的傾向児童もいる。だが、通常学級では、その支援度も少ない。全国に六十万人以上の子どもが悩んでいるのだ。黙って見過ごせない。
 早速出版社に執筆したい熱い思いをぶつけた。企画書には「意図・主題・仮タイトル・種類・グレード・内容・筆者紹介」の他に、渡邊氏からの便り、京都新聞記事、文科省の資料を添付して送った。そして、数日後編集者とお会いして直接「作品の方向性」を語り合った。一週間後「企画」が通り2014年度出版と決まった。
 一年間の余裕があるとはいえ、当時三本の原稿を抱えていたので並行して進行することになった。
 作品の主人公である岡本美香さん始め、家族も喜んでくれた。「友達以外のことは何を書いても結構」と承諾も得た。そこで早速、美香さんに「半生の出来事で、印象に残っていることを、アトランダムに箇条書きで良いから書いてほしい」と依頼。それが届くと、取捨選択し場面構成を練った。
・発端→新しい教科書を手にして喜ぶ美香。
・展開①→「九九」が出来ない。共に助けてもらう。
・展開②→不登校。中学生になって、スワンとあだ名。
・展開③→いじめられる。障害児学級へ。
・展開④→養護学校高等部へ。妹との葛藤。絵を描く。
・展開⑤→ケーキ店就職。病院でLDと判断される。
・最高潮→個展開催。観客の前で絵を描く。新聞に紹介。
・結末→ライブイベントの成功。夢に向かって進む。
 私は作品の構成案を手にして、編集者のYさんと現地へと向かった。美香さんは、レンタカーを借りて京都駅前で待っていてくれた、美香さんの住む伏見区のマンションで、美香さんの絵画を見せてもらった。その後同区の公民館へ挨拶。美香さんの通学していた小、中学校へ。辺りの情景を肌で感じ取りメモする。外から学校撮影中の際は、ハンチングを被っていたので怪しまれてしまった。さらに車を一時間ほど走らせ、宇治から城陽市のJ支援学校周辺を取材して終了。
 帰京後、美香さんとメールでやり取りをしながら、二か月で二百枚程度を執筆。障害問題を扱うので、言動の描写、語句の選択などには慎重を期した。再度、編集者さんと京都へ行って、「場面の加筆・削除」を確認。作中の会話文の事実と、京都弁使用などに神経を注いだ。本の表紙と、挿絵は美香さん自ら描いてくれることになった。
 タイトルの「スワン」(白鳥の意)は、美香さんが音楽祭で「空駆ける天馬」を真面目に大声で「♪ スワンの星座を東南の…」と、歌ったことから笑われ「スワン」とあだ名をつけられたからである。童話の「みにくいアヒルの子」を皮肉ったのであろう。そこで「いつか白鳥になって見せる」という、美香さんの思いも込めてタイトルとした。
 こうして、2014年6月上梓された。出版後、美香さんには講演や個展の声がかかるようになった。同年秋の京都での個展とサイン会には、関西の作家・越水利江子さんをはじめ、多くの作家、知人が多数来られ会を盛り上げてくれた。
 2015年5月には、児童生徒を支援する「全国コーディネーター研究会」から、本書が機縁となって招かれ、東洋大学で全国の小・中学校の先生方を前に。美香さんと私で対談をおこなうという広がりを見せたのだった。



自作を語る『何を書かなければならないか』

同人誌『青おに・20号』特別寄稿 2015年12月脱稿

      自作を語る「何を書かなければならないか」

■読んで書いてイキイキ人生
 まほろばの里高畠町に誕生した『ひろすけ童話感想文・感想画作品集』の審査委員、さらに『むくどりの会』『青おにの会』の講師としてに携わってから、早や四半世紀を越えました。
 今号は、『青おに20号』の節目に当たり、いささか面映ゆい気がしますが、
私自身の「書くこと・読むこと、自著への思い」などをのべてみたいと思います。
 私は、すでに傘寿を越えました。しかし、絶えず「何を書かなければならないか」と前向きに考えて生活しています。すると、気力も衰えず、どこからともなく自然に言葉が紡ぎ出されてくるのです。
 今年(平成27年)は丁度戦後70周年に当たりました。そこで、昨年は「ぼくと戦争の物語」(フレーベル館刊)を、今年は「ど根性ひまわりのき~ぼうちゃん」(第三文明社刊)をまとめあげました。
 老爺になっても、このような活動ができる源泉は、幼年期の母の「読み聞かせ」と「日記をつけさせられていた習慣」にありました。母の読み聞かせが、内面に沁み込んでいたことが生きる原動力となりました。東京大空襲で家族や家財はすべて失い、戦災孤児という烙印まで押されてしまいました。しかし、本の中の主人公だけは内面で躍動していたのです。「あの『路傍の石』の吾一はぼくより苦労していたではないか。『次郎物語』の次郎は、里子に出されたではないか。それを思ったら……」と、つねに作品の主人公と比較しながら歩んでいると、どこからともなく希望と勇気が湧いてくるのです。
 少年期の日記をつける習慣も役に立ちました。毎日の生活を確かめ反省できるからです。ですから、私のデビュー作は日記でした。NHK懸賞日記ドラマ『近くて遠い島』(市原悦子主演)が一等入選し、放送記念祭賞をいただいたことが、さらに自作への自信と意欲を高めていってくれました。
 その後、浜田広介先生、福田清人先生に推薦されて作家の道へと飛び込みました。
 今でも各地の講演会や、テレビ・ラジオなどに出演すると、「読むこと書くことの意義について」問われることがあります。その折、ひと言で回答するときは、
「読むことについて」は、→すぐれた作品を読むことによって、ふとした経験、ふとした想像のなかに託された人間の哀歓、願望などを感じとることができます。登場人物に共感したり、反発したりすることによって、感性の花が咲くのです。感性が育まれると、人の心を理解し、温かく包み込むことができます。相手の哀しみや苦しみが理解できれば、決して相手を痛めつけたり、いじめたり、暴言を吐いたりすることはできなくなってくるでしょう。読書は、間接体験の幅を大きく広めてくれます。
 「書くことについて」は、→自分自身が体験したことがらや出来事、また想像したことを通して、感じたり、考えたりしたことを、ひとまとまりの文章にまとめることによって、自分が今まで何気なく過ごしてきた生活の中に、とても大事な意味や、価値があることを発見でき、そこからさらに考えを深めることができるのです。さらに、作品の内容を指摘・批判されることによって自分自身を向上させることができると、考えているのです。
■書かなければならない題材を選ぶ
 自著百余作の中から「なぜ、この題材を選んだのか」を、最近作の児童文学作品を通して紹介しましょう。
★『東京の赤い雪』(フレー―ベル館)=太平洋戦争中福島県に疎開しました。農作業はできない、いじめられる、家族は大空襲で戦災死。当時5年生だった少年の揺れ動く心情をまとめあげました。舞台化され次世代に「平和の尊さ」を語り継いでいます(早見優、池谷幸雄ら出演)。
★『クロシオ小島のヤギをすくえ』(国土社)=私の赴任した八丈小島が過疎化となり、全員移住を余儀なくされました。するとヤギが繁殖。そのヤギを助けるために立ち上がった人々の姿を物語としてまとめました。
★『つらかんべえ』(今人舎)=3・11東日本大震災。涙を流し浜辺にたたずむ少年。私自身の3・10大空襲の場面とオーバーラップ。「力強く生きるんだよ」と激励を込め、戦災孤児の私が、人々からもらって触発された「温かく優しい言葉」をエッセイ風にまとめあげました。
★『スワン』(アリス館)=京都在住で、学習障害を抱えながらも、それにめげずに未来を見つめる少女岡本美香さん。中学校時代には「スワン」といわれ、いじめられる。しかし、彼女の目標「絵本作家をめざしてけなげに生きる姿」に感動した私は、その半生記を取材しノンフィクションとして送り出しました。
★『おばあちゃんことばのまほう』(アリス館)=母が子どもに「何々〜〜〜しなさい」と、一日百五回も言っていました。すると祖母が、母に魔法の言葉をかけてくれたのです。つまり「事実を客観的に伝える」のです。言葉一語で子どもは優しく変わることを、絵本にして訴えてみました。
★『ぼくと戦争の物語』(フレーベル館)=太平洋戦争が激化し、連合軍の東京への大空襲が始まりました。当時5年生だった心平は福島県に疎開します。軍国主義は学童の意識までも奪っていきました。国民学校では連日農作業と軍事教練。イナゴ捕り、馬糞拾い、縄無い作業……耐えられなくなった心平は父に手紙を書く。だが、家族は東京大空襲で行方不明。戦時中の少年の目を通して、当時の生活を赤裸々に描きました。戦争への怒り、平和への祈りを込めてまとめ上げた作品です。今年の緑陰図書。第一回児童ペン大賞受賞作。
★『ど根性ひまわりのき~ぼうちゃん』(第三文明社)=東日本被災地を訪れました。未だ復興どころか復旧さえ遠い状態。ある会の会長さんが「今は何もいらない。大震災を忘れないでほしい、風化させないでほしい」との言葉。被災地石巻の瓦礫を押しのけて芽を出した一本のヒマワリ。「そのタネを全国に広めて、被災地を思い出し支援しよう」。そんな思いを込めて取材しまとめあげた絵本です。

 私たちの身近なところには、書き残しておきたいことが山積しています。これからも、みなさんと一緒に書き続けてまいりましょう。

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